creature2018@仮設

長い18世紀のイギリス

七年戦争中に捕虜となった乗員たちへ宛てられた身内からの手紙が、未開封の状態で発見される

"Love letters from French sailors taken prisoner in the Seven Years War. History of the emotions meets naval history" とMuir先生の投稿(Twitterないしnitter)でコメントされている、『ガーディアン』の記事: Addley, Esther. “ Unopened 18th-Century Love Letters to French Sailors Read for First Time." 6 Nov 2023.

見出しによると、七年戦争中に英国海軍の捕虜となった仏海軍の乗組員たちへと宛てられた家族や恋人たちからの手紙が、このほど英国のThe National Archivesにて未開封の状態で発見され、260年の時を経て初めて読まれた、という。七年戦争の海での出来事は自分の関心ある範囲のため、読んでみた。以下は記事に基づくメモ。1


  1. 本エントリ執筆中に、ケンブリッジ大学の発表した記事Love lost and foundが大元かもしれないと気づいた。そして、そちらの方が情報が多いのだけれど、本エントリは最初に読んだ『ガーディアン』に基づくメモとする。
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雑記: 鴨川でぴょんと飛び石

先日所用で京都市を訪れました。用が済んでから鴨川沿いを歩いていたところ、二条大橋の少し上流に何か見えました。近づいてみると、等間隔に平らな石がずらり。そこをぴょんぴょんぴょんと跳んで向こう岸から渡ってくる人あり、反対にこちらからあちらへと渡って行く人あり。鴨川デルタの他にもあるとは知りませんでした、飛び石。

せっかくなので跳んでみました。

右岸から見た二条の飛び石(筆者撮影)
右岸から見た二条の飛び石(筆者撮影)

二条の飛び石から鴨川上流(北側)を見たところ。丸太町橋や北山が見えました(筆者撮影)
二条の飛び石から鴨川上流(北側)を見たところ。丸太町橋や北山が見えました(筆者撮影)

人が少なかったおかげで、立ち止まってゆっくり川を眺められました。上流からのやわらかい風や静かな水音が爽やかでした。秋がちゃんと来てくれてよかった。

お天気にも恵まれた、気持ちのいい鴨川散策でした。機会があればまたぴょんとしに行ければと思います。おしまい。

参考: 鴨川真発見記<25から30> | 京都府ホームページと、同ページ内の飛び石位置案内図(PDF)。そして地図(下記参照。夷川通り付近にあることから夷川飛び石と表記されている?)

バダホース強襲後の「ミスタ・キャンベル」

Shore, Henry, editor. “Letters from the Peninsula during 1812-13-14." Journal of the Royal United Service Institution, vol. 61, no. 441, Feb 1916, pp. 91–140. Internet Archive のメモ。

1812年春。元軽師団付き工兵士官で英国に戻ったライス・ジョーンズ大尉の元に、バダホース包囲戦の結果を知らせる手紙が届く。差出人は軽歩兵師団のイニシャルJBさん。その追伸部分に気になる情報が――

Wood and Shaw are both well; poor Mr Campbell has had a paralytic stroke and has nearly lost the use of his left side. [An officer of the Light Division (probably John Bell of the 52nd) to Rice Jones, Camp near Badajoz, undated Apr 1812] (Shore, 1916, p. 94)

ウッド、ショーというクロフォード将軍の元ADCたちに並んで名前が挙がるキャンベルといえばウィリアム・キャンベル大尉の可能性? でも片麻痺で軍務というのはさすがに難しそうだから別人なのか……それとも翌年のファニーさんの手紙にあった「そんな体調不良で軍務復帰するのは心配」という内容には合致するから本人なのか……。いやQMG部門の人は攻撃には直接加わらないだろうから負傷はしないはずだし(戦闘以外で怪我をする可能性はあるとはいえ)、やはり別人か……。Mr 呼びされているし。

手紙の差出人のイニシャルJBさんは、52連隊所属で師団付きDAQMGのジョン・ベルかな。

DNBには1月1日生まれとあるけれど、本当かなぁ(受洗記録を見るまでは保留するスタイル)。

クロフォード将軍を友と慕う、工兵隊のジョーンズ大尉

前回のエントリ(「43連隊付き外科医のギルクリスト医師によるクロフォード将軍評」 | creature2018@仮設)に書いた通り、マクラウド中佐とクロフォード将軍が口論したことがあったと知った。そこで、その口論の内容を示唆する史料がないかと検索してみた。目的の情報は見つけられなかったものの、軽師団長に対して好意的な士官を新たに発見した。好意的どころか、明らかに慕っている。軽師団付きの工兵士官ジョーンズ大尉。一昨年読んだクロフォード将軍の伝記では見かけなかった名前だけれど、一体何者……?

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43連隊付き外科医のギルクリスト医師によるクロフォード将軍評

43連隊の士官による回想録 John Henry Cooke, A Narrative of Events in the South of France, and of the Attack on New Orleans, in 1814 and 1815, 1835, p. 309n. Google Books のメモ。

43連隊付き外科医だったギルクリスト医師からの手紙が抜粋されている。シウダー・ロドリーゴ強襲時に負傷したジョージ・ネイピアの様子について触れてから、クロフォード将軍の話題に移って、曰く、

Has all been said that should have been said about the truly-intrepid General Crawford? [sic] Bitter he was to us, and troublesome too; but from the Coa and Busaco affair down to Rodrigo, I had ample means of seeing that if war be at all one of the natural or proper occupations of man, he was one of those fitted for the most chivalrous acts. Nor was he wanting in kind feelings neither; for nobody was more anxious about the tender management of the sick of his division, as I could tell, having had for some time the charge of them. His private communications to me about our highly-valued friend Colonel MʻLeod [sic], when ill, and at a moment when they quarrelled, left a strong impression upon my mind ever after. [James Gillkrest to John Henry Cooke, Gibraltar, 16 Apr 1834.]

クロフォード将軍に関しては軍医からも色々言いたいことがあるらしい。将兵の場合と似たような評価……"bitter" はともかく "troublesome" めんどくさいて。一応全体的には好意的なコメントだと思いたい。ただ、Fletcher, Robert Craufurd を読んだ後ではクロフォード将軍は軍人に向いていなかったように思うけれど(向いているけれど向いていない)。

そして派手な欠点と同時に謎の美点もあるのがクロフォード将軍。今回の場合は、病人が気遣われ世話されているかどんな指揮官よりも案じていたと。そういえば1810年夏に軽師団の病人の扱いを巡ってクロフォード将軍とピクトン将軍との間で angry communications が交わされていた、というショー・ケネディの証言があった。何か関係があるかもしれない。

それから Colonel M'leod というのはバダホースで戦死した43連隊の Lt-Col Charles Macleod のことか。彼はクロフォード将軍のことを明確に嫌っていた(ごく一般的な態度)。"when ill" というのはクロフォード将軍がロドリーゴで重傷を負った時のこと? 二人の間で巻き起こった口論とは何だったのか? 20年経っても印象に残っているということは、クロフォード将軍の一般的な印象とは違った意外な内容だったのかな。

ギルクリスト医師について調べてみると、43連隊付き軍医としてずっと従軍し、戦後は陸軍病院の Inspector-General になっている。黄熱病やコレラについての著作あり。1853年12月25日にロンドンで亡くなり、Kensal Green Cemetery に埋葬(ここの墓地に眠っているナポレオニック関係者、多い)。