creature2018@仮設

長い18世紀のイギリス

クロフォード将軍を友と慕う、工兵隊のジョーンズ大尉

前回のエントリ(「43連隊付き外科医のギルクリスト医師によるクロフォード将軍評」 | creature2018@仮設)に書いた通り、マクラウド中佐とクロフォード将軍が口論したことがあったと知った。そこで、その口論の内容を示唆する史料がないかと検索してみた。目的の情報は見つけられなかったものの、軽師団長に対して好意的な士官を新たに発見した。好意的どころか、明らかに慕っている。軽師団付きの工兵士官ジョーンズ大尉。一昨年読んだクロフォード将軍の伝記では見かけなかった名前だけれど、一体何者……?

ごはん、だいじ

工兵隊大尉の Rice Jones (b 29 May 1788; d 20 Mar 1854) は、1811年7月3日付で師団付きとなっている。(General Orders 127) 今回見つけたのは彼の日誌と、同じく工兵士官な父(英国にいる)に宛てた手紙。

父に宛てた手紙で、初めてクロフォード将軍について言及されているのは1811年の7月(推定)のもの。軽師団付きになったことや部隊の位置等を述べてから、

General Craufurd has thus far behaved civilly enough; and Ross and his troop of Horse Artillery, who are attached to the Division, are particularly kind. . . . [Rice Jones to his father, undated (probably July) 1811.] (Shore, 1993a, p. 111)

騎馬砲兵隊のロス少佐たちへは率直に友好の意が表されている。しかしクロフォード将軍に対しては、「これまでのところ」という書き方から、判断を保留している気配が感じられる。クロフォード将軍の日頃の言動とそれに付随する評判を考えれば警戒するのもむべなるかな。

そんなジョーンズ大尉も、8月になると軽歩兵師団暮らしに慣れたよう。長距離の偵察について語る日誌と手紙について見てみると、

Aug. 11. Marched at daylight . . . Left the [Light] Division near the ford by the Convent [of Caridade], and went with General Craufurd to reconnoitre the place, taking 20 of the Royal Dragoons as our escort. Rode round at the distance of 1,000 to 1,800 yds. from the works, to the height in front of San Francisco. (Shore, 1993a, p. 112)

I am extremely comfortable with this Division; it is always in front, and if anything occurs is sure of having its share. General Craufurd is particularly civil, and although he rides hard every day, and knocks up my horses, which are not the best in the world, yet he keeps one of the best tables in the Army; and as I live with him I do very well. [Rice Jones to his father, Martiago, 14 Aug 1811.] (Shore, 1993a, p. 113)

ショー・ケネディの証言「クロフォード将軍の体力は尋常じゃなくて、やろうと思えばどんなに長時間でも馬上にいることもできた(大意)」を補強する内容。(Fitzclarence 140) そして移動先であってもごはんを用意できる上官の采配ぶりと、半島の同盟軍一の美食として有名なごはんに感銘を受けるジョーンズ大尉。上官の丁重さについても、以前は「これまでのところ」と経過観察していたものが、今回はロス少佐たちの時と同じ particularly に昇格。

その後もクロフォード将軍に付いて偵察をする日々。8月末の手紙では完全に打ち解けた様子が見て取れる。

I shall do all in my power to remain with Genl. Craufurd until things take a turn, either one way or the other. If the army advances we shall be in front; and if it retires, our Division will form the Rear Guard. Added to this the civility and attention I constantly receive from the General, and you will, I am sure, agree with me, in conceiving it highly desirable that I should remain here whilst any active service is going on. [Rice Jones to his father, Martiago, 28 Aug 1811.] (Shore, 1993a, p. 116)

英文解釈を間違えているのでなければ、クロフォード将軍と一緒にいるために全力で努める、と。ごはんが美味しいからって騙されてないか、ごはんの威力すごいな……という戯言はさておき。気遣いは気遣いでもクロフォード将軍によるそれらはエネルギーの塊というか、本人にそのつもりがなくても圧が強そうな気がする。そういうのでも大丈夫な受け取り上手だったのかもしれない、ジョーンズ大尉。

そして1811年クリスマスの食事メンバー……!

Dec. 25 (Xmas day ). General Craufurd, Wood, and myself met General Stewart to course near Fuente de Onora, and dined with him. (Shore, 1993b, p. 170)

さすがファーストネームで呼び合うだけあって仲良しなクロフォード将軍とチャーリー。ウッド中尉は前者のADCであり、後者の姻戚(ウッド→の兄トーマス=結婚=キャロライン→の兄がチャーリー)でもある。そしてジョーンズ大尉は、クロフォード将軍のお気に入り?
しかし、ショー中尉はまだ怪我から復帰せずとしてキャンベル大尉はどこへ? ポルトガル軍の騎兵部隊を指揮する兄と食事かな?

余暇

狩りといえば、クリスマス以外にも行っている。10月の初めの日誌によると、

Oct. 6. Riding over the scene of the action near El Boden with Genl. Craufurd, we started 2 hares, killed one and brought it home with us. Oct. 8. Coursed with the Genl. near El Boden, killed young wolf or fox, and a hare. (Shore, 1993b, p. 166)

それから10月と11月の末には軽師団の士官有志による演劇の公演があった。

Oct. 30. The Tragedy of Zanga performed by the officers of our Division in the Theatre, made in the Chapel near the town. (Shore, 1993b, p. 166)

Nov. 21. Col. Fletcher, Capt. J. T. Jones, Burgoyne and Mulcaster came to see Henry the 4th performed at our Theatre. They dined with me, and slept in my quarters. (Shore, 1993b, p. 168)

劇場というのは、Fuenteguinaldo 近郊の廃墟になった教会を師団が利用したもの。書き割りを描いたり幕をつけたりして設備を整えた上で上演。95連隊のバーナード大佐がプロデュースし、軽師団付きAAGのベル大尉が書き割りを製作。また『ヘンリー四世』にはウェリントン卿も観劇に訪れ、終演後はクロフォード将軍主催のパーティーが開かれている。(Spurrier 137; Fletcher 444;  Whinyates 104. 軽師団は翌1812年にも別の街で上演している)

そして月明りの下で踊るなどするドン・フリアン・サンチェスたち。

August 30, 1811. Accompanied Genl. Craufurd by the left of the Pass of El Fortin. The Guerillas of Don Juan [sic] Sanchez dancing, etc., by moonlight with the inhabitants. (Shore, 1993b, p. 164)

当日の月相を、位置設定を近隣の Villasbuenas de Gata として算出すると、太陽は乙女座6度に、月は山羊座23度にあった→月相は137度。つまり90度(半月)と180度(満月)の間くらい。それなりに明るい。
また月の動きとしては、
16:20頃: 月の出
18:30頃: 日没
21:10頃: 月が天頂に来る
確かに集まるのにいい具合の夜。 (“Moon Phase Calculator" ; “Browse: Birth Chart") フリアン・サンチェスが踊ったのなら、英国側の部隊の指揮官としてクロフォード将軍も輪に入った可能性もある。それとも、将官としての威厳を保たないといけないんだろうか。そこは地元住民たちとの友好に寄与するためにも、むしろひと踊りした方が一目置かれるのでは。ダンシング軽師団長見たい。

シウダー・ロドリーゴ強襲

年が明けて1812年1月、シウダー・ロドリーゴ強襲後の手紙ではもちろんクロフォード将軍の負傷について触れられている。

In storming the town last night I fear our loss was great; and I am sorry to say my friend and General (R. Craufurd) was dangerously wounded; yet I am happy to say we are not without hope of his recovery. [Rice Jones to his father, Camp before Ciudad Rodrigo, 20 Jan 1812.] (Shore, 1993b, p. 172)

友で上官……! その回復の望みを語る稀有な例でもある。看病のメンバーに入っていなかったのは工兵隊の仕事で忙しかったせいか。

その後、クロフォード将軍が亡くなったことについて、父親に宛てた手紙でこんな風に吐露されている。

Poor General Craufurd, after severe suffering from his wounds, expired on the 24th inst. In him I have lost a warm and valuable friend, and the Army one of its bravest, and most scientific officers. Few had the opportunity of forming a just estimate of his real worth, except those who lived at his hospitable table, and saw him in his quiet and domestic moments. . . . [Rice Jones to his father, Ciudad Rodrigo, 28 Jan 1812.] (Shore, 1993b, p. 174)

「日々手厚い食事でもてなしてもらい、その穏やかで家庭的なひとときを目にした者以外に、あの人の本当の姿はわかりっこない(超絶意訳)」
部下としてというよりは一人の友人としての言葉。ここから逆に、亡くなったクロフォード将軍について当時の将兵の大多数が言っていただろう内容も察せられる言葉でもある。

クロフォード将軍は親切なところもあるという評価はそれなりに見かける(ギルクリスト医師やジョージ・ネイピア)、でも穏やかさについての指摘は少ない。ジョーンズ大尉の他にその面を語るのはファニーさんくらいではないか。妻に対してするのと同じくらいに、ジョーンズ大尉に対してクロフォード将軍は心を許していたのかもしれない。

(そんなジョーンズ大尉が Fletcher, Robert Craufurd で言及されていない不思議。偶々検索でヒットしたのですが、Muir先生の Wellington: The Path to Victory, 1769–1814 でジョーンズ大尉の日誌・手紙が参照されているようですし、マイナーな史料というわけでもなさそうなのですが)

ロドリーゴ強襲や半島戦争の後

クロフォード将軍の葬儀からほどなくして、ジョーンズ大尉は異動のため帰国。彼のその後としては、ウリッジの陸軍士官学校の Adjutant を務めるなどした。そしてジブラルタルに駐屯していた工兵隊の指揮官として1854年に現地で没(65歳)。最終階級は中佐。(Bromley 1782) 少なくとも娘が2人いた模様。(The Gentleman's Magazine 318)

ジョーンズ大尉個人の肖像画は見つけられなかったものの、1846年頃に描かれた鉛筆画?に横姿あり: Le Lieutenant colonel Rice Jones, le maire de Douvres et le porte-masse, Louvre Collections(リンク先画像の一番左の人物)

References

(今回のエントリ作成にあたり、引用部分の再確認のため Google Books にアクセスしたところ、以前は全文閲覧可だった雑誌がスニペット表示へと変わっていた。NZSappersのウェブサイトにてpdfが公開されていたため事なきを得たものの、ひやっとした)