以下の文章は、Tom Almeroth-Williamsによる「Love lost and found」という記事を翻訳したものです。原文のライセンスに従い本稿もCC BY-NC-SA 4.0 DEEDの下で公開しています。
フランスの船乗りたちに宛てて、婚約者や妻や親きょうだいたちから送られた――しかし届かなかった――100通を超える手紙が、1757~8年に書かれて以来初めて開封され、精査された。
文面は極めて希少かつ胸を突かれるものであり、年配の小作人から裕福な士官の妻にいたるまでの愛情、暮らし、家族同士の諍いについて洞察を得られる。
これらの便りは七年戦争の最中に英国海軍によって没収され、ロンドンの海軍本部へと運ばれ、そして一度も開けられていなかった。現在はイギリス国立公文書館(The National Archives, Kew)に収蔵されている。
今回発見された数々の手紙はフランスの女性や労働者、さらに読み書きに関する新奇な証拠を提供してくれている。
「あなたへの手紙を綴って一晩過ごせそう。 [略] 私はいつまでもあなたの誠実な妻です。おやすみなさい、愛しい人。今真夜中です。休む頃合いだと思います」
とマリー・デュボスクは夫へ書いている。1758年当時マリーの夫はフランスの軍艦〈ガラテ〉1の一等海尉だった。彼女は夫ルイ・シャンブレランの所在も、彼の乗艦が英国に拿捕されたことも知らなかった。
ルイは妻からの手紙を一度も受け取れず、夫妻の再会も叶わなかっただろう。マリーは翌年ル・アーヴルで他界した。ほぼ間違いなく、夫が解放される以前のことだ。ルイは無事フランスに戻り、1761年に再婚している。
「あなたを独り占めするのが待ちきれない」 とアンヌ・ル・セールは〈ガラテ〉の下士官の夫へと宛てている。彼女の言わんとするところはおそらく「抱きしめる」だけではなく「愛の営み」もあるだろう。署名は「あなたの誠実なる妻ナネット」、愛情のこもったあだ名だ。 イングランドのどこかに収容された夫ジャン・トプサンはナネットからの愛の手紙を一度も受け取ることがなかったはずだ。
ケンブリッジ大学の歴史学部およびペンブルック・カレッジ所属のルノー・モリュー教授は、 こうした102通の書簡の解読に何か月も費やした。綴り字は奔放で、句読点もキャピタライゼーションもなく、紙が高価だったため隅々まで文字で埋められていた。 モリュー教授はこの発見を学術誌『Annales. Histoire, Sciences Sociales』上で発表している。
モリュー教授「この史料を請求したのは好奇心からでした。リボンでまとめられた手紙の束が3つありました。手紙はとても小さく、また封緘されていましたから、開封してもらえないかとアーキビストに尋ね、開けてもらいました」
「これらの手紙が書かれて以来、こういった大変私的な文面に目を通した最初の人間は自分なのだと気づいてはっとしました。本来の受取人は読む機会がなかったのです。大いに心揺さぶられることでした」
「こうした手紙が語っているのは人間にとって普遍的な内容です。 フランスだけのことでも、18世紀だけでのことでもありません。 我々皆が、人生における大きな課題にどう立ち向かっていくのかを露わにしているのです」
「パンデミックや戦争といった自らの力が及ばない出来事が起こり、愛する人と離れ離れになってしまったら、連絡を取り合い、不安を解消し、気遣いを示し、そして愛を絶やすことのないような方法をひねり出さねばなりません」
「現代で使われているのはZoomやWhatsAppです。18世紀には手紙しかありませんでしたが、書かれている内容はとても身近に感じられます」
拿捕と間の悪さと不運
七年戦争(1756~1763年)の間、フランスは世界屈指の艦艇を統べていたものの経験豊富な船乗りは不足していた。英国はそこにつけこみ、戦争期間中あたう限り大勢のフランスの船乗りたちを抑留した。
1758年にはフランスの船乗り総勢60,137名のうち3分の1(19,632名)が英国に留め置かれていた。 七年戦争全期間に渡ると、のべ64,373名が英国で抑留された。
中には病気や栄養失調で命を落とす者もいたが、捕虜の大多数は生きて解放された。 その間に彼らの家族は何度も連絡を取ろうとしたり、情報交換したりするなどして帰りを待っていた。
モリュー教授「 これらの手紙は、人々がそうした課題に共同体単位で対処していたことを示しています。 今日の我々にとって、フィアンセへ宛てて手紙を書くときに母親や姉妹や叔父やご近所さんに読まれてから送ったり、受取先で大勢に読まれたりするのを知りつつ書くのは、嫌でしょう」
「他の人たちが肩越しにのぞき込んでくる中で誰かに宛てて本心を語るのはやりづらいですよね。 当時は個人と集団の区分がはるかに緩やかだったということです 」
18世紀、フランス本土から船舶という常に移動する目標へと手紙を届けるのは信じられないほど不確実で困難な行為だった。 差出人は時に何通も写しを作り、別々の港に送ることもあった。そのうち一通が船に辿り着くようにと願ってのことだ。
船乗りの親族が手紙を送る場合、船員仲間の家族に頼んで彼らの手紙に便りを同封させてもらってもいた。 こうした手法がとられていた証拠の数々を、モリュー教授は〈ガラテ〉の書簡集でも発見した。他の多くの事例と同様だったのだ。しかし本来の受取人たちの手元に手紙が渡ることはなかった。
1758年、〈ガラテ〉はボルドーを出帆し、ケベックを目指していた。そして英国の軍艦〈エセックス〉2に拿捕され、ポーツマスへと曳航された。乗組員は捕らえられ、艦は払い下げられた。
フランスの郵便当局は〈ガラテ〉へ届けようとフランス国内の様々な港へと郵便物を発送していたが、常に遅きに失していた。 やがて〈ガラテ〉が拿捕されたと耳にした当局は、郵便物をイングランドへと転送。ロンドンの海軍本部の手に渡ることとなった。
「あと少しで届いたと思うとやりきれません」とモリュー教授は述べる。 教授の見立てでは、英国当局は軍事的価値の有無を確認するため2通を開封してみたものの「家族関係のもの」しかないと判断を下し、見放し、倉庫に入れたのだという。
モリュー教授は〈ガラテ〉の乗組員総員181名一人ひとりの身元を平の水兵や船大工から上級士官にいたるまで特定した。 そのうち4分の1名へと数々の手紙は宛てられていた。 そうした受取人たちやその文通相手の家系事情の調査をモリュー教授は行った。 彼らの暮らしについて、手紙だけに依る以上に深く知るためだ。
家族の事情
〈ガラテ〉の乗組員に宛てられた数々の手紙は恋人同士の愛と、数としてはそれ以上の家族愛、どちらの愛情も伝えている。それだけではなく、戦争期間や長期間の別離における家族同士の緊張関係や諍いについて貴重な知見をもたらしてくれてもいる。
中でも特筆すべきものとして、若き船乗りニコラ・ケネルへ宛てられた複数の手紙がある。ノルマンディにて、1758年1月27日、彼の61歳の母親マルグリット――読み書きできないのはほぼ確実――は、何者かに代書してもらった文面で不満を述べている。
1年の最初の日 [原注:1月1日] にお前はフィアンセには手紙を書いた [略]。 私はお前のことを思っているのにお前は大して思ってくれていない。 [略] とにかくお前にとって幸せで主の祝福に満ちた一年になりますように。 私は墓穴に片足を突っ込んでいると思う、ここ3週間調子がよくないんだ。 ヴァラン [原注:ニコラの同僚] によろしく伝えておくれ、お前の様子を知らせてくれるのはあの人の奥さんだけだから。
数週間後ニコラの婚約者マリアンヌは彼に宛てて、親孝行のためにも、またマリアンヌを気まずい状況に置くのを止めるためにも母親に手紙を書くよう言い聞かせている。 どうやらマルグリットは息子の無沙汰のことでマリアンヌをなじったようだ。マリアンヌ曰く、
暗雲は去り、お母様が受け取ったあなたからの一通が、雰囲気を明るく照らしています。
しかし1758年3月7日付の手紙でマルグリットはニコラに宛てて再び不満を述べている。
お前は手紙で自分のお父様の名前を出したためしがない。私の心は本当に傷ついているよ。 次に私に手紙を書く時、どうかお父様のことを忘れないでおくれ。
モリュー教授が調べてみたところ、実際のところこの男性はニコラにとって継父であることがわかった。血のつながった父親は亡くなり、母親は再婚していたのだ。
モリュー教授「 さあ、この息子は明らかに母の再婚相手を嫌がっていますし自分の父親として認めていませんね。 しかし当時は母親が再婚した場合、再婚相手は自動的に父親となったのです。 明言こそしていませんが、マルグリットは息子にその事実を尊重するよう念押しするために 『お父様』の様子を伝えています。 込み入りつつも家庭内の緊張として大変身近なものです」
ニコラ・ケネルはイングランドでの虜囚から生還した。モリュー教授は彼が1760年代に大西洋航路の奴隷船の乗組員となったことを突き止めている。
戦時下の女性たちの決断
今回発見された手紙の過半数(59%)は女性によって署名されており、女性の読み書き能力や交際範囲、そして戦時下における経験についての貴重な手がかりを示している。
モリュー教授「これは、戦争は男だけの問題という古臭い考え方を打ち砕くものです。 男手がない間、女性は家計を切り盛りし、経済的にも政治的にも大きな決断を下していました 」
当時のフランス海軍は、艦の人員を確保するために沿岸部のほとんどの男手を徴兵していた。兵役期間は3・4年ごとに1年間。この体制は英国の強制徴募隊同様に不人気で、多くのフランスの船乗りたちは一旦港に着けば脱走するか、負傷を根拠にした除隊を申請していた。
水先案内人見習いニコラ・ゴドフロアの姉3は、こう手紙に書いている――
何のせいで今よりもつらく感じさせられるだろうって、あなたが島へ発つことです。
これはカリブ海の島々を指している。当時何千人ものヨーロッパの船乗りが病で命を落とした地だ。 それでもゴドフロアの姉と母は、どちらも彼が除隊を申請することを拒んだ。 彼の考えている作戦が裏目に出て洋上の兵役を「長引かせられ」かねないことを、彼女たちは懸念していた。
何を以て文盲呼ばわりしているのか?
モリュー教授の研究は、読み書きの能力に関してより包括的な定義を提唱している。
モリュー教授「 読み書きができなくても書き物文化に参加することは可能です」
「今回発見された手紙を送っていた人々の大半は、 伝えたい事柄は代書人に口で言い、手紙の読み上げも誰かにやってもらっていました 」
「それらを担っていたのは字が書ける誰かであって、専門の職業人ではありません。 連絡のやり取りは地域社会で取り組むことだったのです 」
参考文献
- Maufras, Émile. ‘Letter from Du Bois de la Motte to Moras, 20 Apr 1758, Plymouth’, Archives Historiques du Département de la Gironde, vol. 333, p. 73-4.
- Morieux, Renaud. ‘Lettres perdues Communautés épistolaires, guerres et liens familiaux dans le monde maritime atlantique du xviiie siècle’, Annales. Histoire, Sciences Sociales (2023). DOI: 10.1017/ahss.2023.75
- The National Archives, ADM 97/131: ‘Letters to prisoners of war mostly addressed to the crew of the Galatea at Rochefort and forwarded to England (1757–1758)’
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Credit
Original text
Author: Tom Almeroth-Williams / University of Cambridge
Title: Love lost and found
Publication date: 7 Nov 2023
URL: https://www.cam.ac.uk/stories/french-love-letters-confiscated-by-britain-read-after-265-years
License: CC BY-NC-SA 4.0 DEED
Images
- A French Naval officer c. 1758: New York Public Library
- A French sailor of the period 1680-1760: New York Public Library
- The Battle of Quiberon Bay, 21 November 1759: the Day After: National Maritime Museum, Greenwich, London
En-Jp translation: @eighthMay
- 訳注:フランス海軍の24砲門のフリゲート艦。護送任務を命じられ、12隻から成る商船団と共に1758年4月5日にボルドーを出帆し、4月7日の午後3時頃、ビスケー湾にて英国の艦艇4隻と遭遇。囮となって商船の大多数を逃がすことに成功するも、自らは戦闘に敗れ、降伏した。〈ガラテ〉の艦長はジャック・デュボワ。モリュー教授の論文によるとデュボワ艦長は当時22歳。↩
- 訳注:英国海軍の64砲門の三等艦。ポーツマスから出帆しビスケー湾の艦隊に合流する途上でケベック行きのフランスの船団に遭遇。〈ガラテ〉を数時間の追跡の後に射程に収め、大破させ、拿捕した。その際の指揮官はジョン・キャンベル艦長。翌1759年のキブロン湾の海戦ではルシウス・オブライエン艦長の指揮艦だった。↩
- 訳注:原文ではsisterとしか書かれていないが、とりあえず姉と訳出した。↩