creature2018@仮設

長い18世紀のイギリス

【翻訳】軽師団長の訃報と家族(クロフォード将軍の伝記等より)

1812年1月のシウダー・ロドリーゴ強襲時・後のロバート・クロフォード将軍について、のべ5通の家族関係の手紙の和訳(手紙が書かれた時系列順に掲載)。

人物紹介や図表は別エントリにまとめました: 「【翻訳】軽師団長の訃報と家族」の付録――人物一覧と図表

簡易時系列

  • 1812年1月

    • 19日(午後8時頃)シウダー・ロドリーゴ強襲にて、ロバート・クロフォード軽師団長、重傷を負う
    • 22日 軽師団長、やや軽快する
    • 24日(午前10時頃)軽師団長、死去。病理解剖?
    • 25日(正午)軽師団長の葬儀
    • 26日 スチュアート将軍、遺族への手紙を書く
    • 29日 キャンベル大尉、遺族への手紙を書く
    • 24–29日のいずれか ミセス・クロフォードからの手紙が到着する
  • 1860年代以降

    1. ?: フレイザー(パリから)→ショー・ケネディ宛の手紙
    2. 1861年6月16日: ショー・ケネディ→フレイザー宛の手紙
    3. a: 1861年?: ショー・ケネディ→R・G・クロフォード宛
    4. b: 1868年7月16日: R・G・クロフォード死去。
    5. 1869年: Coila's Whispers 初版出版
    6. 1891年: General Craufurd and His Light Division 出版

訳文

  • 亀甲括弧〔 〕は訳者による補足を示します。
  • 丸括弧( )は原文のものを示します。
  • 原文での脚注は後注としました。
  • 読みやすさのために適宜改行した箇所もあります。
  • 各節冒頭に適宜画像を挿入しました。

1812年1月26日付、スチュアート少将からクロフォード中将宛の手紙――友の訃報、葬儀、旧交

手紙の差出人、チャールス・スチュアート少将(ユサール姿)の肖像画
手紙の差出人、チャールス・スチュアート少将(ユサール姿。出典: Wikipedia

 1812年1月26日、ガジェゴス1の軍政総監部
 親愛なる友へ

 きみに懇願しなければならない。きみの助力となるもの全てを召喚して神の思し召しに従い、そして、きみにはそれがあることはわかっているが、男らしい不屈の精神を奮い起こしてほしい。こう頼むのは、この手紙が運ぶ宿命にある悲報に落ち着いて耐える必要があるからだ。きみは看破しているに違いないと思うが、きみの愛する弟について多血質の〔楽天的な〕希望を、最初から僕は持たせてはいない。彼を喪ったことを、嗚呼悲しいかな、いまや僕らは嘆くしかない! しかし親愛なる友よ、僕らは皆遅かれ早かれこの儚い存在を過ぎ行きよりよいもへと移り変わらねばならないのだし、きっとどんな人生の終着の様相であっても、神が定めたもうた彼のそれには及ばないだろう。ネルソン、アバークロンビー、そしてムーア2と同じように、また(世界が等しく広がっていたとすれば)いかなる者にも劣ることなく、きみの最愛の弟は斃れた。勝ち鬨こそが、彼が自ら率いた勇猛な部隊から最後に耳にしたものだった。そして彼の最後の一刻一刻は軍の出来事に関する懸念と、彼の軽歩兵師団への配慮に満ちていた。もし彼の友人たちがこの悲運からの尽きせぬ悲しみに屈することを自らに許すなら、世を去った英雄よりもむしろ我が身を慮っている。陸軍と彼の祖国には彼を喪ったことを嘆くにもっともな理由がある、何故なら彼の軍事的才覚は一流だったから。それにその闘志もまた一流で、大変な大胆不敵さ、勇猛さだった。

 この度の件に関して、この職に就くすべての階級の間に遍く広がっているのはただひとつの感慨だけだ。もしきみや彼を深く愛する人間(中でも彼の天使のような奥方や子どもたちを大変気の毒に思う)が、彼への追悼のために全軍が果たした務め〔軍葬〕における態度をその目で見ていたら、彼の功労がこれほどに広く、不動の評判を得るに至ったことをまじまじと見つめようと涙の勢いも止められ、流れなくなっていたことだろう、心の昂りが抑えきれないほどの締め括りが羨ましくなって。

 この手紙を受けとるまでに、きみは悲しい詳細からさえ救いを得られるほどに、この恐ろしい打撃への準備がすっかり整っているだろうと僕は信じて疑わないし、それにミセス・クロフォードへ連絡するのは目下のところ僕には無理だから、全体としては全てきみと一緒に対処するのが最善だと思う。きみの健全で思いやりある判断に委ねるから、そちらが最良だと信ずる方法で起こったことを漸次明かしていってほしい。

 きみが受けとることになる(ウェリントン卿直属の軍医の)ガニング正外科医3による診断書(同封しておいた)にある負傷についてだが、その性質からするとロバートが回復することはあり得なかった。弾丸が辿った角度、極度の呼吸困難、そして吐血量は危険な徴候の根拠として十二分な理由だった。とはいえ、それでも弾丸は肺よりも下部に入り込んでいるのではないかと思われていた。そこと同じ箇所の傷がよくなる場合があったものだから 僕らは希望を抱いて耐え忍んでいた 。だが悲しいかな! それでおしまいだった。ロブ4とガニングの正外科医たち、二人は休みなく彼に付き添っており、その懸念、熱意、そして専門家としての能力によりあらゆる事柄が想定されていていたため、絶えず注意を払ってくれていた。若きウッドと43連隊のショー中尉の両副官は、彼自身の家族がなしうるほどのあらゆる愛情ある気配りを示していた。前者について言っておかなければならないのが、彼が露わにしていた心情は心からの礼を尽くしたものであり、その相手にとっても喜ばしかったに違いないということだ。こうした者らに是非とも加えなければならないのがウィリアム・キャンベル大尉だ。彼はロバートとの長い親交からその許をまったく離れはせず、それに非凡なやり方で、今回その思慕を体現していた。もし僕自身の軍務が許してくれれば、きみは信じてくれるだろうが僕は絶対彼の枕元を留守にすることはなかっただろう。昔の通り彼のことを兄弟のように感じる我が心に従い、僕は微力ながら精一杯相応に行動した。

 先に名前を挙げた三人の士官と担当外科医が交代で彼に付き添い見守っていた。19日の夜から24日の午前10時の、彼が息を引き取るそのときまで。22日には小康状態となり、軽快したように思われていた。処方された薬がきちんと期待通りの効果をあげていたのだ。彼と少しの間話をした。主に〔19日の〕急襲のことだった。それと彼は敵軍に関する報せについて大変気を揉んでいた。彼はそれ以前にしていたのとは違ってとても快活でいたから、その注意が奥方や子供らのことに立ち返ることはなかった。僕が切実に望んでいたのは、激しい痛みをぶり返させる恐れのあるあらゆる話題から彼を遠ざけておくことだった。彼と交わしてきた多くの会話から十分承知していたが、ミセス・クロフォードについての考えには限りない影響力と愛情〔の発露〕が付随し、子どもたちの養育と教育に関しては猛烈な不安がついて回っていた。こういった思考こそ、一筋の希望の光が存在する間は呼び覚まされないことを、僕は強く願っていた。最も重要なのは、彼の心がかき乱されることのないようにしておくことだったからだ。このことがミセス・クロフォードやきみへの十分な弁明になるものと信じる。つまり僕はきみたちに、彼がその心に最後に抱いた想いを、間違いなく彼が言い表したであろうそのことを伝えることができない。もし僕らが確証を得られて、彼に人生の本当に終わりに近づいていることを知らせていれば伝えられただろうことを。

 彼が自身の容態に疎かったと言うつもりはない。最初に僕へ使いを寄越したとき言っていたのが、傷は致命傷だと感じるということ、そして、天命に身を任せる覚悟はすっかりできているということだったから。けれど、後には希望を胸に抱いていたことと思う。〔24日〕午前2時にウィリアム・キャンベルが大変勇気づけてくれる内容を書いて送ってきた。彼〔クロフォード〕は自分が回復してきたことや、あらゆる有望な見通しを語っていた。そして心地よい眠りへと落ちていった、自分にとってはそんな風に思い浮かべられたものへと。嗚呼、しかし! その眠りから彼は二度と目覚めなかった。鼓動は次第に拍動することを止め、息は短くなっていき、それから魂が飛び去ってからようやく、傍にいた者たちは彼がもうそこにはいないことに気づいた。いとも簡単だったんだ、彼に天国への通行許可が下りるのは! もし、この大変に心憂い舞台について詳らかにする中で僕がせめてもの救いを得られるとするなら、それは彼の最後の言葉が、奥方への愛情と僕への友情を併せ持つものだと知っていることに因っている。そんなひとつながりの考えのなかで彼は目を閉じた。

 さて、このようにきみへ、目下僕自身の心境が能うる限りにおいて臨終の様子を知らせたので、続く葬礼への準備では余すことなく全力が尽くされたと請け負いたい。ウェリントン卿が決定して、彼は見事攻略したその〔小〕破口近くに、自身の師団によって葬られることとなった。軽歩兵師団は、彼のいる聖フランシスコ修道院5近郊の家の前に集合した。25日の12時のことだ。第五師団が彼の宿舎から破口へ続く道に整列した。近衛旅団、また騎兵、第三、第四、第五各師団の士官たち、ならびにカスターニョス将軍6とその全参謀、ベレズフォード元帥7とポルトガル全軍、ウェリントン卿、そして司令部全体が葬列を組んだ。棺は、彼がその先頭に立って導いてきた勇敢な連中の肩に担がれて、安息の場所へと運ばれた。軽歩兵師団の部隊指揮官たちが棺の付き添い人を務めた。葬儀全体はきわめて満足のいく作法に則って執り行われた、いまにも胸が張り裂けそうになる折をそのように形容することが許されるならば。僕自身は喪主という心憂い仕事を自らに割り当てた。随行していたのはキャンベル大尉、ウッドとショー両中尉、そして軽歩兵師団の参謀たちだった。大切な亡骸が決して眠りを妨げられることのないようにとの用心がなされ、後代がその勲を記念して伝えることとなる場所にて、彼は眠っている! 

 現世での彼の身辺、それを無下にはしない。書類、書き物用道具箱、書籍等々、そして形見として少しでも喜ばしいか、それとは別に重要だと思われるものはすべて丁寧に密封し、荷造りし、最も信用のおける彼の側仕えの手で可及的速やかにロンドンへ送らせる。同様の事例での慣習通り、彼の携帯用家具や馬たちはいずれも、最も都合がよいように公売で処分させる。全体の正確な目録を作成して追って送らせる。また彼に対する請求があれば清算させ、側仕えらは報酬を支払って任を解く。それから主計官8の報告書と上記すべては正式に、遅滞なくきみへ送付させる。ウェリントン卿は、ミスター・パーシヴァル9へ書状を宛てるつもりであると大変力強く表明してくれている。ミセス・クロフォードと子供たちのためにあらゆる手を尽くすよう、また彼が堂々と受けるに値する名声を讃えるように、と。この題目についてこの上なく満足いく手配ができたと僕は自負しているよ。

 嗚呼、親愛なる友よ! きみに率いられ、96年に知り合ったささやかな五人組のうち何人が逝ってしまっただろう、そして他の者はどれほど残酷な経験してきただろう、今は亡きアンストラザー10とロバート、そして多くをやり抜いてきたきみよ! プロビー11と僕だけしか残っていない。僕らはかけがえのない二人の友の喪失を嘆くわけだが、その功労を確信する気持ち、そして二人が示した模範が頭から離れることは決してないだろう。きみは僕のことを十分わかっているから、僕が現時点でどんなことに耐えなければならないかを信じてくれるね。僕が自分自身に関して口を閉ざしてしまっているとすれば、それは自らの困苦を、ひどく押しひしがれた人たちに対して押しつけたくないからだ。でも、とても計り知れないほど大切な友人をまたどこかで見出すなんてことがあるだろうか? 失敬、最愛の友よ、いまはもうこの手紙に付け加えるつもりはない。ただ、また短いものを、こちらがもっと落ち着いたときに書くつもりだ。

 それまでずっと変わらず
 きみを心から大切に思い常に感謝している
 チャールズ・スチュアート

〔改訂: 2024-01-24〕

1812年1月29日付、W・キャンベル大尉からクロフォード中将宛の手紙――友の最期の言葉、遺品

チャールズ・クロフォード中将の肖像画
手紙の受取人、チャールズ・クロフォード中将。頭部の黒い装身具は1796年に負った傷に関わるものと見られる(出典: ArtUK

 1812年1月29日、ガジェゴス
 親愛なる中将殿

 貴方の弟君、嗚呼そして我らが友でもあるお方の訃報をお伝えするという辛い責務を、スチュアート将軍は私から取り去ってくださいました。

 それゆえ、もしも私があの方の最後のお言葉を受け取っており、またそのいくつかが優しいお気持ちによって奥様とお子様方に宛てられていたということでなければ、私は口を閉ざしていたに違いありません。物を言うと胸が張り裂けそうなのです。しかしながら己が義務の命ずるところに従い、貴方にそれをお伝えせねばなりません。そうすればあの方が奥様に関して最後に言い表されたことが、奥様へ届けられることともなりましょう。私などではその役は到底務まりません。

 あの方は、奥様に伝えるよう私に仰せになりました。といいますのもあの方が仰るには、どうすべきか私はわかっているからだということであり(しかし悲しいかな、私がどれほどその任にあらざることか!)、つまりこう述べよと私に仰せになったのは、全身全霊で奥様とお子様方のことを思われている、ということです。信仰上の儀礼はどれほど疎かになさってきただろうとも、12あの方が大変厳かに仰っていたのが、天国でまた逢えるつもりでいるとのご自身の思いを奥様は信じてくれるだろう、ということでした。

 内科医らは、多少なりとも焦燥感を招く恐れのあることは考えないようにとあの方に強く求めました。そのため19日を過ぎて以降はそれ以上何も仰いませんでした。

 臨終のご様子についてはスチュアート将軍からのお知らせとなりますが、そういった事情ゆえにあの方が奥様やお子様方の話題にさらに踏み込むことがないように為されていたのですが、奥様方のことが苦しみの道すがらずっとお心を占めていたものと私は確信しております。まさしくご家族のことへこそ全精神が傾けられていました。現場での軍務から離れ、そうする余裕を持つだけのいとまがおありだったのです。

 スチュアート将軍がいてくださることをありがたく思っております。おかげさまで私どもの悲しく憂鬱な知らせを、適正な作法に則ってしかとお伝えできます。私ではその役目を果たすだけの能がなかったに違いありませんし、同じ態でこの悲嘆や、あの方の死によってこの心に空いてしまった隙間について言い表すだけの能も、私にはございません。スチュアート将軍から、あの方が最後〔の休暇の折〕に英国から持ってこられた書き物用の道具箱に書類をすべて収めてしまうよう仰せつかっております。書類の内容はごくわずかな私信のみとなっております。あの方はその他ほとんどの書類を、そこで倒れられた攻撃が行われる数日前に破棄されてしまっていたためです。

 この道具箱には懐中時計や会計書類数枚も収めることとなりますが、そちらには説明書きを同封いたします。すべての書簡はまず貴方にご覧いただき、それからミセス・クロフォードへ送り届けられるほかありません。それといいますのも書簡の中には奥様ご自身のものがあるのですが、あの方が亡くなった後に届いたばかりに、数通が未開封となっているためです。13ご遺品に関する手配につきましては万事ことごとく、あの方の副官と私自身がスチュアート将軍のお指図を受けることとなります。

 親愛なる中将殿
 貴方を敬愛し、またこの上なく不幸せでおります
 ウィリアム・キャンベル

〔改訂: 2024-01-24〕

1813年2月10日付、クロフォード夫人からW・キャンベル大尉宛の手紙――夫の人柄。負傷時の様子を質問

手紙の差出人メアリー・フランセス・クロフォード夫人の実家、スローン・プレイス
手紙の差出人メアリー・フランセス・クロフォード夫人の実家、スローン・プレイス(出典: Wikipedia。ファニーさん本人の肖像画は著作権の関係上ここには掲載できない……と思っていたら某出版社のページにキャプチャが。)

 1813年2月10日、ナイツブリッジ14
 親愛なる大尉さんへ

 あなたは約束してくださいましたね、私がお便りを差し上げる際には存分に耳を傾けてくださると。それにこう仰いましたね、切に切に愛しい夫に関して私が何かお尋ねしたいと思ったら、いかなる質問であれ答えてくださる、と。果たしてご存じかどうか、私はそのことに大変慰められております。私が心の底から関心を持てるのは 彼のことだけ ですし、日中どうにか自分の本分を、殊に最愛の我が子たちから求められている務めを、身内からかけられる優しさにも応じるべく明るい素振りで全うして、ようやく言葉では言い表せないほどの安らぎを感じさせてくれるのは、夜にひとり暖炉の前に腰かけて、私の胸の内を占める思いのいくらかをお伝えすること、それもこうした話題に正真正銘の関心を抱いている相手へと宛てることなのです。

 ふと心に浮かびましたのは、彼の気高い心の顕れのうちあなたが見落としてしまわれたかもしれないこと、そのような思い出を辿ってお聞かせするというものです。確かにあなたは彼を尊敬し慕っていらっしゃいましたが、私ほど打ち解けることはなかったはずですから。

 彼は英雄でした。あなたはご存じですね、彼が身をもって示したのを。ああ、あろうことかそれが命取りとなって、全世界に知らしめてしまったことを! ですが、このことはご存じですか。そんなこの上なく崇高な英雄的精神、そして女性以上に女性的なやわらかさが彼の中では矛盾なく合わさっていたのです。彼はあらゆる人間の苦悩に涙を流し、あらゆる悲哀に心を寄せていました。夫や父親として、そんな彼のことをお話しするのは私にはできそうもありません。本当に、言葉では到底言い尽くせないくらい彼は愛情深く、慈しみ深かったものですから、彼との別離を悼むときやるせない思いがこみ上げることがよくあります。でも胸の内でこう呟いて抑えつけるのです、自分の今の身の上をどんな人間のものとも引き換えにするつもりはない、と。本当にかけがえのないことだと感じるのです、彼が愛おしんでくれたように愛された思い出があるというのは。それに比べれば、この心が授かり得たかもしれない他のどんな天恵もかすみます。

 優れた才能があったのに彼には傲慢なところは微塵もありませんでしたし、それにこんなにも他者の美点をよしとするのを全然厭わず、また認めるに早い人が他にいるでしょうか? 大変高い志があったので彼にはほんのわずかな不公平を思うだけで怒りの炎を燃え上がらせずにはいられないところがありましたが、でもその寛容なことといったらありませんでした! それに、自分自身の非を悟ったときにそれを認める正直さといったら!

 私と過ごした最後の数週の間に彼が見せてくれた、忍耐心に関する忘れがたい実例があります。帰国してすぐに彼は、喜びに両手を広げ、心からの好意を持って 同胞であるはずだった方 のところに行きました。その殿方からは思いやりのかけらもないひどい扱いを受けたのに、彼は憤りの影すら見せませんでした。とはいえ彼が故郷に捧げられるのを許されたわずかな時間は苦々しいものになるほかありませんでした。お察しくださると思いますが、どれほどの憤りを 私が 感じたことか、それに彼がそんな風に傷ついている様を見るのがどんなに辛かったことか! ですが私は絶対に忘れはしません、温かく慈愛に満ちた心で彼が私をたしなめてくれたことを。その一件について私の思うところを話したときのことでした。「そうだねファニー」彼は言いました。「まったくもってその通りだ。でも彼は不運に見舞われているんだよ」そしてその目から涙が流れだしました。件のお方が不運に見舞われていらしたのは 自業自得 だということをロバートは全然覚えていないようでした。あなたが想像なさるよりも、あるいは私がお話しできる範囲よりもずっとひどい苦悶を抱えながらも、彼は英国に滞在していた期間のほとんど最後の最後まで、なおもってその方が「不運に見舞われたのだ」というこの一念が強く、心外な出来事も目に入らずに志操堅固、その方のために八方手を尽くさずにはおかず、事実、この目的のために力の及ぶ限り奔走していました。15ああ、書こうと思えばまだまだ書けますし、言うべきことはまだまだあるはずなのですが!

 彼に先立たれたことに泣き言は申しません。浮世というのはつらいもの ですし、彼は処すには難しい感情を多々抱えていました。襲いくるつらい発作を、彼は持ち前の不屈の精神と、私が知る中で最も完璧な信仰心で耐えてはいたものの、情熱的な気質に相応して猛烈な苦しみを覚えていました。その心痛はおびただしいもので、彼も時には打ち負かされかけていました。

 彼の度量の大きさ、まったく公平無私なところ、そして天与の交際上手さについてはきっと確たる証拠をご存じでしょうし直にご覧になったことがおありでしょう。彼がごく平凡な状況に対して、仕事でくたくたになった後でも、どんな風に楽しさを見出し、またどういった妙句を使ってそれを周囲に振りまいていたものだったかを。いつだって彼は真っ先にその場を盛り上げ、はりきってそこに飛び込んでいきました。子供らについて言えば、彼は選り抜きの遊び相手で、ささやかな遊びに加わる様はまるであの子らの一員のようでした。ですがここで思い浮かぶ情景には胸が張り裂けそうで、辿ってお聞かせすることはできそうもありません。彼にまつわる千もの話、彼らしく愛情を込めて我が子たちの喜びに共感を示す様子、そんな話が私の頭の中にいっぱいに詰まっているのですが。

 お尋ねしたいことがあるため先を急ぎたいと存じます。それらに対しては、お願いですから読んだときに思ったありのままをお答えください、ご自身に対してそうなさる風に。最後に軍に戻ってからの彼の意欲はどうでしたか? 軍務に没頭しそれ以外の時も溌溂としていたのか、それとも家庭への思いが重くのしかかっていたでしょうか? もしも私が最後の秋にリスボンへ行っていれば、彼は少しでも私と過ごせたとお思いになりますか? 私がそちらにいないのを彼が残念がることはありましたか? 彼が負傷したとき、あなたは近くにいらっしゃいましたか? そうでなければ、その後どれくらい早く彼の許に行くことができたのでしょうか? もちろんあなたがどれほど弛みなく最後まで彼を看てくださったかは承知しています。ですが私は知りたいのです。あなたが来てくださったことでどれくらい早く彼の気が楽になったのか、それに、最初の際どい状況下で一体どなたが彼を介抱してくださったのかを。

 親愛なる大尉さん、どうかご無事で。あなたに神のご加護がありますように。お返事をくださるときには体調のことをお知らせくださいね。と言いますのも、最後にお目にかかった際まだまだお加減が悪そうにお見受けしたものですから。ひどい体調不良から日も経たないのに軍に戻られたがためにご苦労なさるようなことがないようにと、切に望んでいます。

 いつまでも変わらず
 あなたの誠実な友
 M・F・クロフォード

〔改訂: 2024-01-24〕

1861年6月13日付、ショー・ケネディ中将からサー・W・フレイザー宛の手紙――クロフォード将軍の負傷・病床・葬儀

ジェームズ・ショー中佐の肖像画
手紙の差出人、ショー・ケネディ中将(1821年頃。出典: ArtUK

 バース16、1861年6月13日
 サー・W〔ウィリアム〕へ

 パリから頂戴したお手紙に関し、ご要望の通りクロフォード将軍が亡くなられた経緯を説明いたします。

 シウダー・ロドリーゴ17強襲が行われたのは1812年1月19日のことです。その日、実用に足ると報告されていた破口は 二つありました 。大きな方の破口はピクトン将軍18麾下の第3師団が、小さなものはクロフォード将軍麾下の軽歩兵師団が強襲することになっていました。第3師団は塹壕に留まり、軽歩兵師団とパック19の旅団は進駐していた村から行軍して強襲に加わるようにとの命令でした。このために、軽歩兵師団はロドリーゴから3マイル〔約4.8キロメートル〕上流の浅瀬でアゲダ川20を対岸へと渡り、そこからかなり大回りに行軍して強襲地点に接近したのです。

 クロフォードは軽歩兵師団を聖フランシスコ修道院付近に配置し、師団の小破口強襲の態勢が整ったのは午後7時でした。概ねその時刻に、師団は強襲に向けて次のような隊形で進軍を開始しました――ライフル連隊のうち三個中隊が右方に移動して大小破口間にある空堀に侵入、第43連隊・第52連隊・ライフル連隊の一部から成る本隊は小破口へ直接進軍、それよりも前方にガーウッド中尉21率いる〈決死隊〉とネイピア少佐22率いる300人の強襲部隊が先行、というものです。

 第43連隊・第52連隊は小隊ごとに縦列隊形を組んで並進していました。43連隊が縦列右手を、52連隊が左手を成していました。43連隊が前面右側で52連隊が左側です。43連隊は破口に突入する際小隊単位の縦列のまま塁壁に沿って大破口方向に進むよう、52連隊はその反対方向のサラマンカ門23に向けて進むようにとの命令でした。そのようにして43連隊が右に、塁壁で52連隊が左に旋回すれば、両連隊は町と向き合う横隊を作る形になるだろう、ということでした。

 43連隊と52連隊の主力は、お気づきになられることでしょうが、横並びに進んでいました。率いていたのは各々の連隊指揮官であるマクラウド中佐24とコルボーン中佐25です。二人は連隊の前衛に立ち、強襲部隊のすぐ背後に続いていたのです。

 前述の部隊が強襲に向けて進軍する間、クロフォード将軍はその左側を進みつつ、そのまま斜堤頂上へと向かいました。部隊が空堀に侵入した場所から約60ヤード〔約55メートル〕左の地点、そこから一番高い調子の声で部隊に指示を出し続けていました。このために彼は敵歩兵から猛烈な銃撃を浴びせかけられました。フォッセ・ブレイ〔副塁壁〕と塁壁、敵はそれらの胸墻の向こうに立ち並んでおり、彼我の距離は非常に近いものでした。何故そうだったのかといいますと、フォッセ・ブレイの空堀の幅が非常に狭くまた要の空堀さえも非常に狭かったためです。しかもその近辺には遮蔽物がありませんでした。そのようにして彼はごく近距離からの歩兵の二重の銃火にさらされていましたし、フォッセ・ブレイ上に築かれた胸墻の高部斜面と〔クロフォード将軍がいた〕斜堤の斜面の勾配は同一直線上でありましたから、弾丸に当たることなくその場に留まるというのはそう何分もなかったことでしょう。そうしてマスケット弾が命中しました。弾丸は彼の腕を穿ち、肋を砕き、肺を貫き、それから脊椎に突き刺さったかあるいは喰い込んでいました。26それに彼はただ倒れただけではなかったのです。〔至近距離からの銃撃で〕あまりに強い威力を受けたために、倒れた際の勢いのまま斜堤を転がり落ちていきました。傍には私以外の人影はなく、またその近辺ですら誰もいませんでした。私は即座に彼を掴まえ、辺りからの直接射撃を避けられるような起伏のある場所へと半ば引きずるように、半ば抱えるようにして運びました。

 このような状態で横になってから数分後、彼は私に、自分は致命傷を負った、もう長くないのがわかる、と述べました。そのような彼の心情を私は憂え、思い違いであってほしいと伝えました。しかしその返事として彼は、自分はもう長くないという論を繰り返しました。

 そこで私は、彼のためにできることが何かないか訊ねました。しかしこれに対する返答は、何もない、何故なら身辺の始末はすっかりつけてあるから、というものでした。

 それで私は、ウェリントン卿に申し伝えることはないか訊ねました。すると一時考え込んでから彼はこのように述べました。ウェリントン卿に申し送らなければならないようなことは思い当たらない、そして、私が将軍のためにできることはただ一つしかなく、それは「ミセス・クロフォードに、自分たちは天国で必ずまた会えるものと思っていることを伝えてほしい」、と。

 その後しばらく彼は無言で、じっと横になっていました。そうして安静にしていたおかげで幾分か落ち着きを取り戻した彼は、少し具合がよくなったと述べました。そこで私は体を起こさせても構わないか、そして、もし可能であれば〔強襲開始前にいた〕郊外に向かってみてはどうかと申し出ました。これに賛同した彼は、私にすっかりもたれかかりつつも、聖フランシスコ修道院に辿り着きました。

 修道院への途上ではライフル連隊の軍医に行き合いましたが、その軍医は怪我について詳しく訊ねた上で負傷箇所は腕だけだと考え、聖フランシスコ修道院でクロフォード将軍が診察を受けられる場所を指し示しました。そこへ彼は連れていかれ、軍医たちの診察を受けました。診察の間私は彼を運び入れられそうな家屋を探しに行きましたが、その帰りに傷を診ていた外科医の一人に出くわし、そこでその外科医が述べたのは、傷はとても重篤なため将軍の命がもつ見込みはないということでした。

 聖フランシスコ修道院に程近い家へと将軍は移されました。

 クロフォード将軍が傷を負ったのは19日の午後8時頃で亡くなったのは24日の午前10時頃、つまり負傷してから110時間生きながらえたのです。とはいえ残念なことに、その間に彼が感じた苦痛は実に酷なものでした。発熱を伴う腫脹と重度の呼吸困難に因るものです。彼は回復する望みを抱いていなかったわけではないものの、このような願いを述べていました。もしも死がこの傷の行き着く結果ならばすぐに辿り着くことだろう、それほど酷い苦痛だから、と。

 20日の朝、サラマンカ門で偶然私はウェリントン卿と顔を合わせました。彼は大変心配そうにクロフォードのことを訊ね、私は予後がよくないことをご説明しました。閣下はその後クロフォードをお見舞いになり、二人はしばらくの間言葉を交わしていました。クロフォードは、シウダー・ロドリーゴ奪取により大変有利な立場に立ったことに祝意を表し、その返事として閣下は何かこのようなことを仰っていました――「そう、大打撃。まったくもって大打撃だ!」

 クロフォード将軍の葬儀は25日に営まれ、その墓は件の破口近くとされました。ウェリントン卿、ベレズフォード元帥、カスターニョス将軍、および司令部参謀らが参列しました。第五師団が地歩を固め、軽歩兵師団全軍が儀仗隊を務めました。

〔初稿: 2019-01-19

改訂: 2024-01-24〕

1861年頃、ショー・ケネディ中将からR・G・クロフォード氏宛の手紙――クロフォード将軍の愛情と信仰心

ロバート・クロフォード将軍の肖像画
ロバート・クロフォード将軍(出典: archive.org

〔ショー・ケネディの希望により、前節のサー・ウィリアム・フレイザー宛の手紙の写しがクロフォード将軍の次男ロバートへと送られた。そこに同封された手紙にて、ショー・ケネディ曰く、〕

私の手紙(の写し)において、お父様が亡くなられた際の状況を説明している箇所には、おそらく特別注意を引かれたことでしょうけれども、あなたのお母様に関するお言葉があります。そう仰ったのはお父様が負傷された直後、今まさに死に瀕していると思われた際のことでした。あれらのお言葉は、己は幾許もなくこの世を去る運命にあるのだというお心積もりの時に純粋な衝動から出たものであり、お母様への深い愛情を私に分からしめました。また、誠に確固たる宗教的信念を明白に示してもいました。お父様はそれから4日を経て亡くなられましたが、それまでの間ずっと生き残る望みをお持ちでした。そのため仰ったことはそれほど私の印象に残りませんでした。ご家族へどのように連絡がとられたのかは存じておりません。と申しますのも、そういったこと一切はサー・チャールズ・スチュアート27が取り仕切っておられたためです。この方とお父様は大変昵懇な間柄で、お二人はいつもお互いのことをロバート、チャールズと呼び合っていらっしゃいました。

〔初稿: 2019-01-21
改訂: 2024-01-24〕

底本

  • Craufurd, Alexander Henry. General Craufurd and His Light Division. 1891, pp. 196-9; 214-20; 221-2; 265-9, archive.org.
  • Fraser, William Augustus. Coila's Whisper. 2nd ed., 1872, p. 12n, archive.org.

あとがき

本稿は以前Twitterに投稿していた内容の一部をまとめたものです。再録にあたっては全体的に訳文を修正しました。

訳出してあるのは、軽歩兵師団指揮官ロバート・クロフォード将軍の死について様々な時期に書かれた、家族関係の手紙のべ5通です。故人が友人や家族から深く愛されていたことがよくわかります。

しかし身内以外がクロフォード将軍の死についてどう思っていたかというと、当時の半島軍内には、今回取り上げた手紙とは正反対で、悲しむどころかむしろ清々している人もいました(Stanhope, _Eyewitness . . . _)。それは少なくない声だったろうと思います。クロフォード将軍は大変な嫌われ者で、そう思われるのが当然の厄介な人物、それが大前提。

クロフォード将軍につきものな様々な極端さや激しさのうち、今回は友愛と家族愛に関する史料でした。


  1. 訳注: ガジェゴス (Gallegos de Argañán): ポルトガルとの国境付近にあるスペインの町。クロフォード将軍が倒れたシウダー・ロドリーゴから西へ約13kmに位置する。半島戦争期には度々同盟国軍(の部隊)の司令部が置かれていた。
  2. 訳注: ネルソン、アバークロンビー、そしてムーア: いずれもナポレオン戦争で大きな功績を残し、戦死した英国の英雄。それぞれホレイショ・ネルソン提督 (Horatio Nelson, 1st Viscount Nelson, 1758–1805)、ラルフ・アバークロンビー将軍 (Sir Ralph Abercromby, 1734–1801)、ジョン・ムーア将軍 (Sir John Moore, 1761–1809) のこと。ちなみに、後述のアンストラザー将軍の長男の名前は、上官にちなんだと思われるラルフ・アバークロンビー・アンストラザー。
  3. 訳注: ガニング医師 (John Gunning, 1773–1863): 軍医、ウェリントン卿直属の外科医。(1815年頃の肖像画 | MutualArt
  4. 訳注: ロブ医師 (John Robb, 1776?–1845): 軍医、ウェリントン卿の専属外科医。ライフル旅団創設時からの95連隊付軍医を経て参謀(軍医の偉い人?)となる。南米遠征へも従軍しているので、クロフォード将軍とは既に面識があったかもしれない。
  5. 訳注: 聖フランシスコ修道院 (the Convent of San Francisco): シウダー・ロドリーゴ郊外北部に位置する女子(?)修道院。近代に拡張したシウダー・ロドリーゴ市街地に飲みこまれるようにして、遺構が現存している。2024年1月から再び一般公開されている。(Reabre al público el Convento de San Francisco - SALAMANCArtv AL DÍA - Noticias de Salamanca
  6. 訳注: カスターニョス将軍 (Francisco Javier Castaños Aragorri Urioste y Olavide, 1758–⁠1852): スペイン軍の将軍。
  7. 訳注: ベレズフォード元帥 (William Carr Beresford, 1768–⁠1854): ポルトガル軍元帥。ポルトガル軍の訓練と指揮を任されている英国軍人。
  8. 訳注: 主計官 (Paymaster-General): 主計総監かもしれない。Wellington'sMoney.pdf によると政治的な役職である主計総監のポストは二人分、1812年当時在任していたのは Charles Long (1760–1838) と Lord Charles Henry Somerset (1744–1803)。とはいえこの二人は本国にいるはずなので、スチュアート将軍が指しているのはイベリア半島現地にいる Deputy Paymaster General のことだと思われる。その場合、John Paramor Boys と Stanhope(?) Hunter がその任にあった。
  9. 訳注: ミスター・パーシヴァル (Spencer Perceval, 1762–1812): 当時の英国首相。
  10. 訳注: アンストラザー (Robert Anstruther, 1768–1809): 陸軍士官、故人。ナポレオン戦争において、各地で前線指揮官としても参謀士官としても活躍した。コルーニャ撤退では後衛部隊の指揮を執ったが、あまりにも過酷な状況から衰弱、コルーニャの戦いの数日前に亡くなり、現地で埋葬された。その傍らにはサー・ジョン・ムーア(既出)が葬られたという。
  11. 訳注: プロビー (John Proby [Lord Carysfort], 1780–1855): 近衛歩兵第1連隊所属の大佐。義理の叔父の後援によってチャールズ・クロフォードの秘書官となったことが縁でクロフォード兄弟と知り合う。半島戦争では近衛歩兵連隊の一員としてカディス要塞奪取や守備に活躍している。
  12. 原注: 形式的な作法の体系、あるいは世間体の体系としての信仰というものは、ロバート・クロフォードあるいはチャールズ・ネイピアが持つような熱烈な気質にはあまりそぐわない。とはいえキリスト教的精神というものは、共感というものを永久に神聖化したものにすぎないそれは、かくも否応なく必要とされるものである。訳注: チャールズ・ネイピア (Sir Charles James Napier, 1782–1853): クロフォード将軍の元ADC、後出のショー・ケネディの手紙で登場しているジョージ・ネイピアの兄。大多数の士官と同じく、クロフォード将軍のことは人としては嫌っていたが、その功績は認めていた。原著者がここで彼の名を挙げている理由は不勉強にて分からない。
  13. 訳注: Ian Fletcher, Robert Craufurd: the Man and the Myth, p. 451によると、ロバートが読むことができた妻からの手紙は、前年12月30日付のものが最後だったと見られる。
  14. 訳注: ナイツブリッジ (Knightsbridge): ロンドンはハイドパーク近くの地区、当時からの高級住宅地。
  15. 訳注: 同胞: 前掲書pp. 401-3によると、この人物はロバート・クロフォード少将の次兄チャールズのことを指す。当時チャールズは、継子であるニューカッスル公爵の政治的影響力を利用し様々な官職を得ようとするも失敗し続け、そのことが公になり、批判を受けている最中だった。何も知らないロバートは、普段自分が周りにしているのと同様に、理不尽な怒りをぶつけられた形となる。
  16. 訳注: バース (Bath, Somerset, England): イングランド西部にある都市。温泉が有名な保養地。半島戦争で発症した熱病に生涯悩まされたショー・ケネディは晩年、同地で療養していた。
  17. 訳注: シウダー・ロドリーゴ (Ciudad Rodrigo, Salamanca, Spain): スペイン西部、ポルトガル国境のほど近く、丘の上にある要塞化された街。強襲当時の塁壁や空堀が現存し、航空写真からも見て取れる。
  18. 訳注: ピクトン将軍 (Sir Thomas Picton, 1758–1815): 第3師団の師団長。ウェリントン軍で最も有能な将軍の一人。軍服ではなく平服、特に青色のフロックコートという出で立ちのことが多かった。また当時の基準からいうと身長が高く (約185センチメートル) 堂々とした体躯の持ち主だった。クロフォード将軍とは犬猿の仲。
  19. 訳注: パック (Sir Denis Pack, c.1772–1823): 大佐。半島戦争でポルトガル軍旅団を指揮。
  20. 訳注: アゲダ川 (the Águeda River): ポルトガル・スペイン国境の一部を成す川。イベリア半島の主要河川のひとつ the Douro River (ポルトガル語発音カナ表記「ドウロ」、スペイン語「ドゥエロ」) の支流。シウダー・ロドリーゴの南側を流れている。
  21. 訳注: ガーウッド中尉 (John Gurwood, 1790–1845): 52連隊所属。シウダー・ロドリーゴでは〈決死隊〉を指揮した。後年ウェリントン公爵の秘書として Wellington's Despatches を編集する。
  22. 訳注: ネイピア少佐 (Sir George Thomas Napier, 1784–1855): 52連隊所属。シウダー・ロドリーゴ攻囲戦で強襲部隊を率いた際に負傷、右腕の切断手術を受けた。手術後はクロフォード将軍の居室の真下の部屋に運び込まれ、当時の将軍の様子について「酷く苦しんでおり、〔上階からの〕呻き声と、ほぼ毎時ごとにこちらの様子を尋ねる使いを寄越されるのには大いに悩まされた」と後に自叙伝で述べている。
  23. 訳注: サラマンカ門 (Salamanca Gate): シウダー・ロドリーゴの北東の角にある市門。おそらく現在のPuerta del Condeのこと。
  24. 訳注: マクラウド中佐 (Charles Macleod, 1786–1812): 43連隊の連隊長。二ヶ月後のバダホース強襲時に戦死。
  25. 訳注: コルボーン中佐 (Sir John Colborne, 1778–1863): 52連隊の連隊長。シウダー・ロドリーゴ強襲時に重傷を負った。
  26. 訳注: 訳文「弾丸は彼の腕を穿ち、肋を砕き、肺を貫いてそれから脊椎に突き刺さったかあるいは喰い込んでいました。」は、(略)33号さんの歴史創作『徒言』での「マスケット弾は彼の腕を穿ち、肋を砕き、肺を貫いて脊椎にまで達していた」という洗練された一文を、ご厚意により拝借いたしました。『徒言』ではシウダー・ロドリーゴ陥落後のウェリントン公爵とクロフォード将軍の面会が描かれています、またキャプションにある通りウェルズリー将軍の辛さが痛いほど伝わってくる大好きな作品です。
  27. 原注: ウェリントン卿の軍の軍政総監、後の〔第三代〕ロンドンデリー侯爵